聞き手 元木昌彦・インターネット報道協会代表理事
――江上さんは、1997年の「第一勧銀総会屋事件」(注)の頃、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)の本店広報部次長として連日、メディア取材の矢面に立っていました。相当に大変な日々だったでしょう。
(注)第一勧銀総会屋事件 第一勧業銀行が株主総会の紛糾をおそれて大物総会屋に協力を依頼し、460億円に上る資金を提供していた事件。1997年に東京地検特捜部が強制捜査に着手し、銀行の会長ら11人を逮捕した。この事件後、商法改正が行われ、総会屋の利益要求を禁じる利益要求罪が新設された。
朝から晩までマスコミの皆さんと接していました。自宅にも毎晩、押しかけてきました。狭い家でしたが、全員を家にあげて酒とつまみを用意しました。玄関で一人ずつ呼んで「一対一」で取材に応じると、「あの社の記者と何を話したのか」などと他の記者に疑心暗鬼をもたれるからです。酔っ払って、うちで眠りこけた人もいました。
僕は広報の人間として、自分自身に決めていたことがあります。ちょっとかっこいいかもしれませんが、それは「絶対にウソはつかない」ということです。さらに「知っていることはちゃんと話す」「余計なことは言わない」とも決めていました。
実は、これは「週刊現代」編集長だった友人の鈴木哲さんが教えてくれたことなんです。ある時、「どんなことがあっても、お前はきちっと話せ。どのように書くかは我々の仕事だ」といわれました。それを実行しました。
失敗したこともあります。記者会見の前に「こういう質問をしてくれ」と雑誌や新聞の記者に頼んだ。頭取になる可能性がある人が出席するので、少しは明るい空気にしてほしいと思ったものだから。一方、銀行幹部たちには「例えば、『不正があったことをいつ知りましたか』という質問が出ますよ」と伝えておきました。私は、彼らが「知らなかった」と答えると思っていたんです。ところが、ある正直な銀行幹部が会見で「私は、日銀の検査の時に不正があることを知っていました」と答えた。それでいっぺんに会見場がざわつき、私が仕込んだ質問もダメになりました。
そんな失敗のあと、大蔵省(現・財務省)から「第一勧銀は何回、記者会見をするのか」と直接、お叱りを受けました。「会見をするたびに新聞記事が大きくなるじゃないか。そのつど銀行に対する世間の信頼が揺らぐ」と。
第一勧銀の上層部の人たちも、みんな僕を叱るんですよ。「なぜ、こんなにしばしば記者会見をするんだ。お客さんからも叱られているぞ」などと言われました。そこで、僕はこんなふうに言ったんです。「例えば、あなたが今、ある事実を知ったとする。それについて1週間後に会見したら、記者たちはどう思いますか?1日待ったら1日のウソ。3日待ったら3日のウソ。1週間待ったら1週間のウソ。そうなったら、あなたが苦しむんですよ」と。そんなことを言っていたから、銀行を辞めることになるんだけど。
――知っていることをきちんと話す。そして、どう報道するかは記者たちの判断に委ねる。そのように自分で決めてはいても、どのような記事を書かれるか、不安はなかったですか。
それは不安ですよ。本当に不安だったけれど、これは仕方がないですね。
――江上さんが銀行にいた当時と今を比べて、メディア状況はどう変わりましたか。
当時の記者さんたちは、事件の「筋(すじ)」(成り立ちや展開)を読むというのか、そういうことへの意欲が今以上にしっかりあったと思います。新聞も雑誌も「この事件の根っこは何だろう?」とどんどん掘り下げて報道していった。正直言って、知らないのはわれわれ銀行だけでした。
かつての記者さんたちは、パズルの小さなピースのような情報を取ってくる。それらを記事にしてキャッチボールのように投げ合っていたのだと思います。投げ合っているうちに、どんどんパズルが埋まってきて大きな流れになる。銀行の上層部の人に、こう言ったことがあります。「広報はビーバーのダム作りみたいなものです。チョロチョロ水が流れているうちは何とかせき止められるかもしれないが、大きな流れが来たときにはとても無理です」と。
――第一勧銀の事件当時、新聞にはある意味「切れ味」があったと思います。いま「メディア不信」が膨れているのは「報道が核心を突いていない」「知っているのに書かない」といった印象を持たれているからではないでしょうか。銀行在籍当時からメディアを間近に見てきた江上さんは、今の「メディア不信」がどこから来ているとお考えですか。
「メディア不信」という言葉は、政権に批判的なメディアに向かって、どこかが投げかけるようになった言葉なのだと思います。投げかけるのは、もしかしたら政権筋かもしれない。政権にシンパシーを持つ人たちかもしれない。そういった人たちはマスコミに対して「マスゴミ」などと侮蔑する言葉を投げつけたりもしています。
かつては世間のみんなが共通して、不正に対して怒っていました。第一勧銀総会屋事件やリクルート事件などに対して。だから週刊誌も100万部売れたりしていました。しかし今はどうでしょうか。「週刊文春」が「文春砲」と呼ばれたりしているものの、では、世間のみんなが「週刊文春」を買って共通の怒りを持っているかと言えば、あんまりそういう空気を僕は感じません。
つまり、世論が分裂し、コアなグループの中だけで完結しているのです。そういう状況の中でメディア自身が「メディア不信」と言ったりするから、よけいにダメなんじゃないでしょうか。自縄自縛(じじょうじばく)に陥っているのではないかと思います。
――海外のメディア状況と比べてみて、どうでしょう。
色々な国を取材で訪れた時、よく新聞というものを考えました。中国では「改革開放」が始まったとき、新聞がいっぱい出てきました。モンゴルでも、社会主義から自由主義に変わった時がそうでした。ミャンマーでアウンサンスーチーさんが軍事政権による自宅軟禁から解放された時、いちばん最初に動いたのは新聞ですよ。新聞はそれぞれ意見が違っていて、異論反論オブジェクションなんです。そのように意見が対立する新聞を、みんなが読み比べて、どちらが正しいかと議論していました。
マレーシアに行った時のことです。誰も新聞を信用せず、インターネットのブロガーの記事を信じ、そのため政治不信になったりしていました。僕はマレーシアの首相だったマハティールさんにインタビューしたのですが、マレー人のトップである彼は「わが国の経済は中国人に任せたのだけど、最近、彼らは政治にも関与し始めた」と、中国系のウェブメディアのことを話していました。
韓国は世論が両極に分かれて、大きく沸き立つ国です。僕が訪れた時、インターネットの普及は日本の比ではなく、ソウルはインターネットシティーのような感じでした。新聞はあまり影響力がなく、ネットメディアがずいぶん力を持っていました。
――韓国では、市民参加型のインターネット新聞「オーマイニュース」が政治を動かすまでに力を持った時期がありました。私は「オーマイニュース」の日本版の社長を務めましたが、韓国のようには成功しませんでした。日本のネットメディアをどうご覧になっていますか。
日本でネットメディアというと、ニュースサイトの「Yahoo!ニュース」などから、キュレーションサイト、まとめサイト、SNS、旧ツイッターの「X」まであります。そうしたサイトをのぞくと、結局、新聞や雑誌の記事をとりまとめているわけです。人々はそのようなサイトそのものに影響力を感じているでしょうか。むしろ、旧ツイッターなどでつぶやいている人(インフルエンサー)が影響力を持ったりしているのではないかと思います。
ネットで自分のほしい情報を検索して探していると、視野狭窄になりがちです。人と人のコミュニケーションが今より豊かだった時代に比べると、考えが違うものを拒否するようにもなっています。アメリカで、若い世代がいま最も危機感を覚えているのは「分断」であるという雑誌記事を読みました。アメリカにおける分断は、以前は民族的なもの、黒人と白人の間のものであったりしました。
しかし、今は「イメージ」ですね。トランプ前大統領をめぐってメディアが作り上げた「トランプ像」を絶対に支持する人たちと、そうではない人たちが大きく割れている。以前、知り合いのアメリカ人は「大統領はアメリカの象徴だ。選挙で選ばれたら、民主党も共和党もなく、その人がアメリカの象徴になる」と言っていましたが、今は誰もそんなことを思っていないでしょう。
――企業が不祥事で記者会見を開いても、その内容がもとで、さらに批判を浴びるという展開が少なからず見受けられます。どのようにご覧になっていますか。
僕がダメだと思うのは、メディアコンサルタントのような人が記者会見を仕切ることです。さきほども言いましたが、知っていることは知っていると、きちっと話す姿勢が重要です。どう反応するかは相手しだいです。それなのに、メディアの反応を抑え込もうとしても、日本の風土の中では失敗します。「正直」に勝る対応はありません。
不祥事が起きると、社内調査委員会ができます。しかし、内部の人間だけで資料を見たり関係者から証言をとったりしても、限界があります。
例えば、自民党の裏金が問題になっていますが、せめて2011年の福島原発事故をめぐる民間事故調のようなものを作れないかと思います。第三者が関係者にヒアリングをして事実を見極め、防止策を提言するシステムです。同じように、企業で不祥事が起きたら、その企業が給料を払っている弁護士では忖度してしまうから、外部の第三者的な弁護士に調べてもらう。公的な機関が関わり、費用はたとえば供託金を積んでおく。そんな制度的な仕組みをつくってはどうでしょう。
――報道でがんばっているメディアもあるが、国民の目からは「突っこみ不足」だとか、「政治に遠慮している」というふうに思われてしまうのが今の状況だと思います。こんな厳しい見方が出てくるのはなぜでしょう。
新聞や週刊誌はインターネットの速報性に負けています。ネットのスピードに世の中のみんなが慣れてしまっているから、たとえば新聞を読んでも「何か面白くないな」と思う。僕もそう実感しています。
それに最近の新聞は、ニュースではない「読み物」がやたらと多い。ちょっと有名な人の解説も多い。「これは週刊誌か」と思うぐらいです。こんどの日本銀行のマイナス金利政策解除と金融政策転換については、どの新聞を読んでも似たようなことが書いてあります。
新聞は原点に戻るべきではないでしょうか。例えば、自民党の裏金議員が80人いるとすれば、80人全員を追いかけてインタビューする。なぜ裏金が作られるようになったのか、もっと深く「筋(すじ)」を追う。おそらく、自民党が野党になってお金がなくなったときに備えて、色々考えた知恵者がいたんじゃないでしょうか。独自に真相を追及するエネルギーや熱気が感じられたら、そして新聞の紙面にそれぞれの独自性が出てきたら、「もっと読みたいな」ということになると思います。
――私が週刊誌にいた時分は、自分たちが面白がって雑誌を作っていたし、それを読者も喜んでくれました。それで部数も増えるという幸福な時代でした。しかし、今の編集部員に会うと、面白いことが見つからない、何が面白いのか分からないと言います。
それは、雑誌の記者さんが取材対象について「面白がらない」ということなのですか。
――そのような話も聞いています。新聞は「社会の木鐸」なので、雑誌のように「面白い」だけではやっていけませんが、「絶対にこれはやらなければならない」という熱気が伝わってこないようにも思えます。取材費の減少など様々な制約があるからでしょうが。
「面白がる」というのは、いろいろ意味が深いと思います。最近では、芸能人が不祥事を起こしたときに「週刊誌は書き過ぎだ」「面白ければ、ひとの人生を壊すのか」といった見方もありました。だから、「面白がる」ということの意味は深いと思います。
しかし、メディアには「強い思い」がないといけないのではないでしょうか。さきほどミャンマーの新聞の話をしましたが、「言論の自由」を初めて得て、自分たちのバックグラウンドに対する責任というか、何かを背負っている意識というか、そういうものが感じられました。そうした強い思いが、日本のメディアにはだんだんなくなってきたのではないかと心配です。
「日本人は議論をしなくなった」といわれます。国民性は歴史がつくるものですが、高度成長期には右肩上がりで「頑張れば幸せになれる」とみんなが思い、会社の中で議論はしても最後は一本にまとまった。今は議論自体が少なくなり、結論を急ぎ過ぎている感じを受けます。メディアは結論を急がないで、「本当に自分たちでやりたいことはこれなんだ」ということをもっと押し出していっていいのではないでしょうか。
――AI(人工知能)の時代です。このまま急速にAIが発達していくと、メディアはどのようなものになっていくと想像されますか。
AIはフェイクニュースを作りやすいですね。米国大統領選挙などで、あちらこちらのニュースを切り貼りしたウソの記事が、これからもっとたくさん出てくるでしょう。
音楽は非常に記号化されたものだから、AIが曲を作ると非常に感動的なものができるそうです。ショパンなどの曲がぜんぶ記号化されて入っているから、「ここはショパン風に」などと指示すれば、AIはそのとおりに作曲できるらしい。
しかし、小説は「こういうものを書きたい」というものが自分の中にあって初めて物語が生まれます。報道記事もそうではないでしょうか。仮に飛行機事故が起きたとして、その記事をAIが書いたら、犠牲者家族の悲しみや心の痛みを本当に描けるのか。記号化されたものをもとに、本当に人の心を打つ記事ができるのか。
さきほど雑誌をめぐって「面白がる」という言葉が出ましたが、初動である「面白がる」ということが果たしてAIにできるのかどうか、僕には大きな疑問です。
(インタビューは2024年3月に行われました)
1954年、兵庫県生まれ。1977年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。梅田・芝支店の後、本部企画、人事関係(総括部、業務企画部、人事部、広報部、行内業務監査室)を経て、高田馬場、築地各支店長。銀行員としての傍ら、2002年に『非情銀行』で小説家デビュー。2003年3月、退行。1997年に第一勧銀総会屋事件に遭遇し、広報部次長として混乱収拾に尽力。その後のコンプライアンス体制に大きな役割を果たす。この事件を元にした映画『金融腐蝕列島』(原作:高杉良、主演:役所広司)のモデルとなる。『失格社員』(新潮文庫)、『怪物商人』(PHP文芸文庫)、『リベンジ・ホテル』 (講談社文庫) 、『家電の神様』 (講談社文庫)など著書多数。
1945年、新潟県生まれ。早稲田大学商学部卒。1970年、講談社入社。「月刊現代」「週刊現代」「婦人倶楽部」を経て1990年に「FRIDAY」編集長。1992年から1997年まで「週刊現代」編集長・第一編集局長。1999年、オンラインマガジン「Web現代」創刊編集長。2006年、講談社を退社し、2007年から2008年まで「オーマイニュース日本版」編集長・代表取締役。著書に『週刊誌は死なず』(朝日新書)、『孤独死ゼロの町づくり』(ダイヤモンド社)、『「週刊現代」編集長戦記』(イースト新書)、『競馬必勝放浪記』(祥伝社新書)、編著に『編集者の学校』(講談社)『編集者の教室』(徳間書店)、『新版 編集者の学校』(講談社+α文庫)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。