「送り手」と「受け手」が区別され、文明化された概念

佐藤卓己・上智大学教授

聞き手 元木昌彦・インターネット報道協会代表理事

「インタビューを動画で観る」

コミュニケーションの流れは「流言」から「報道」へ

――いま、フェイクニュースが非常に大きな問題になっています。フェイクニュースは噂や流言ともつながっています。『流言のメディア史』(岩波新書 2019年)をお書きになりましたが、現状について、どのようにお考えですか。

流言は「最も古いメディア」ともいわれます。人間は文字を発明する前まで、ひとから聞いた話を誰かに話して伝えていた。情報の「受け手」が「送り手」になるわけです。そのプロセスは基本的に、現在のSNSと同じです。つまり、流言とは最も原始的なコミュニケーションのスタイルであり、人間の原初的な欲求に合致しており、それによって人々は盛り上がることができます。

これと比べると、報道とは、より文明化された概念です。そこでは情報の「送り手」と「受け手」が区別されています。人間社会の歴史的な発展のなかで、コミュニケーションの流れは流言から報道に進んでいったといえます。

報道をジャーナリズムととらえると、ジャーナリズムとは、「送り手」が信頼できる情報を「受け手」に送って、それがビジネスとして成り立つ世界のことです。そこで問われるのは情報が正しいのか、間違っているのかという「真偽」です。

ところで、私の専門はメディア論です。メディア論は「真偽」ではなく、「影響力の大小」や「効果の大小」を問題にします。だから、事実ではない流言やプロパガンダも研究対象になります。一方、ジャーナリズム論には、影響力を必ずしも前提としない部分があります。そのため「報道は影響力が小さくてもいい」というロジックも成り立ちうると思います。

「メディア不信」か、「ジャーナリズム不信」か

――報道に携わる者には「報道は世の中のためのもの」とか「間違ったニュースを伝えてはいけない」という考えがあります。しかし、ネットの世界ではSNSなどを通じて報道を批判する声が大きくなり、「メディア不信」がふくらんでいます。この現状をどうお考えでしょう。

私の答えは、「メディア不信」なのか、「ジャーナリズム不信」なのかによって、かなり変わってきます。まず「メディア不信」について言えば、それは当然のことです。少なくともメディアリテラシー教育では「メディアのいうことは疑って批判的に考えましょう」と教えています。メディアは1920年代にアメリカ英語の中で「広告媒体」という意味で確立した言葉です。広告媒体が不信を持たれるのはごく普通の良識だといえます。

問題は「ジャーナリズム不信」です。先ほど述べたように、ジャーナリズムは「真偽」をビジネスの柱にしています。「真偽」の「真」とは、不信がないということ。だから、ジャーナリズムにとって「ジャーナリズム不信」という言葉は、おそらく致命的です。

他方でジャーナリズムは、ビジネスモデルとしてみると、ほとんど広告媒体として収益をあげてきたという現実があります。広告収入は近年、ネット系が増大し、新聞や放送は落ちています。こうした中でジャーナリズムは、本来の「真偽」を売り物にするビジネス展開を考えなければいけないのだろうと思います。

――しかし、ネットの世界では「自分たちの関心のあるものだけ見聞ききしていたら、それでいい」という傾向が非常に強まっています。

「自分たちの関心のあることだけ知っていればいい」というのは、いわゆる個人主義の考え方だと思います。一方、「国民であれば当然考えるべきだ」というのは、どちらかというと全体主義になります。社会が個人主義化していくことは、歴史の流れとして必然だと私は思っています。たとえば「皆が同じテーマについて考える必要があるのか。個人主義的に判断すればよいではないか。ダイバーシティとはそういうことではないのか」というように。したがって「もっとみんなのことを考えろよ」と議論していくことが、その問題の解決への正しい処方箋だとは私は思いません。

AIの普及に楽観も悲観もせず

――AI(人工知能)が急速に社会に普及しています。メディアもAIを使う領域をどんどん広げています。AIはメディアの歴史をがらりと変えるものになるのでしょうか。

人間社会の対応の仕方によると思います。文明は文字の習得により大きく変化しました。われわれの「短期記憶」(数秒から数十秒しか保持されない記憶)の能力はチンパンジーより低い。文字で残せば記憶する必要はなくなるからです。また古事記は、それまで人がすべて暗記していたものを書き起こしたものです。文字化によって正典が生まれ、真偽が議論できるようになりました。さらに「活字の登場で科学革命が起きた」という議論もあります。まさに「真偽」は活字によって明確に判定できるようになったからです。

放送の登場は、それまでの物理的な移動を伴わなければ情報を伝達できなかった社会を、空間を超えて情報が移っていく社会に変えました。メディア史の研究者としては、AIの登場もそのような文明の階段の一歩だろうとみています。かつて1920年代に日本にラジオが登場したとき、当時の一流の知識人たちは「もう新聞はなくなる」と自信をもって言っていました。しかし、新聞はなくなりませんでした。あまり楽観も悲観もせず、冷静にAIをどう使っていくかを考える必要があると考えています。

「真偽」だけでないコミュニケーションの価値

――かつて新聞はあまり間違いを犯さないものと思われていました。こんどは「AIは間違わない」という認識が広がっていくのではないでしょうか。その結果、AIが人間の代わりに判断した情報をただ受け取りさえすればよいという社会になれば、これは相当怖いことではないかと思います。それは心配しなくていいですか。

いや、心配したほうがいいと思います。ただし、心配の仕方によります。『流言のメディア』にも書きましたが、そもそも戦前の日本で「新聞が正しいことを書いている」と本当に信じていた人が多かったかというと、そんなことはない。「新聞はウソばかり書いている」という認識は普通でしたし、「新聞辞令」は人事の噂話でデマを意味していました。「新聞が正しいことを書いている」という考えが世間の常識になったのは、少なくとも戦後のことです。それが連合国軍の占領から独立した後からだとすれば、「1950年代から半世紀、新聞は信用されるメディアだった」と後世の歴史家はいうかもしれません。

ここで問われるのは、新聞、放送、雑誌など各メディアの「価値」とは、正しい情報を伝えることにあったのかということです。たとえば、われわれは雑誌を買うときに「正しい情報」を求めているのだろうか。そうではなく、「影響力」や「効果」にひかれて購入する場合がほとんどだろうと思います。少なくとも私は、正しい情報を得るために週刊誌を買った経験はありません。

――私は「週刊現代」編集長でしたが、週刊誌を作っている側もそうでした(笑)。

つまり、「真偽」を超えたところにコミュニケーション本来の価値があるということを見直す必要があると思います。「優しいウソ」というものが日常生活にあるじゃないですか。「真偽」にこだわるジャーナリズムの枠組みだけで判断すべきでないものも存在する。AIによって「真偽」がかなり確定できる段階になったとしても、何が人間の生活にとって役立つものなのか、「真偽」を超えた部分に何があるのかということは考えなくてはならない。メディアを「広告媒体」ではなく、「情報伝達媒体」という広い意味で考えるとしても、「真偽」を超えたところに立たなければメディアを論じる意義がなくなってしまうと思います。

「暗い未来」の時代に力を発揮するジャーナリズム

――AIが発達していくと、ヒトラーのような全体主義や、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のような社会が目の前に現れるのではないかという、漠たる不安があります。これも取り越し苦労ですか。

おっしゃるような社会を、AIがもたらす「恐るべき暗い未来像」としてイメージしてしまうと、おそらく敵を見誤るだろうという気がします。なぜなら、ナチスは20世紀前半の、まだインターネットもない時代の大衆運動のスタイルでした。人間の原初的な欲求を恐れるべきだという議論なら、私もそれなりに納得できるが、インターネットが発達した今の社会で、ナチスのような大衆社会現象が「恐るべき暗い未来像」かといわれると、歴史家である私は、そうでないだろうと思います。

高度成長期の人々は「未来は明るい」と思っていました。だが、今よりも豊かな生活をしていたわけではありません。労働環境やジェンダーの問題なども含めて現在より幸せな生活であったとは、私には到底思えません。

また、未来に展望が持てないことは果たしてそれほど不幸なことなのでしょうか。「明るい未来」の時代は「何も考えずに前に進めばいい」と人々は考えていた。むしろ、未来に展望が持てない時代だからこそ、希望や新しい可能性を見出さなければならないと人々は考えます。その意味でいえば、ジャーナリズム、あるいは報道は本来、「明るい未来」ではなく「暗い未来」の時代でこそ力を発揮すべきでしょうね。

「一億総白痴化」の警鐘が半世紀後の今に残したもの

――日本ではメディアは、新聞、ラジオ、テレビの順で発達してきました。テレビ時代の初期に社会評論家の大宅壮一氏が、テレビは国民の「一億総白痴化」をすすめると論じ、流行語にもなりました。私は大宅氏の臨終に立ち会った人間のひとりですが、テレビによる「総白痴化」という “予言”は、その通りになったと思われますか。

私は『テレビ的教養』(岩波現代文庫 2019年)という本を書いていますが、そのサブタイトルは「一億総博知化への系譜」です。「白痴」ではなく、博士の「博」に知識の「知」。つまり、一億人が物知りになる社会をテレビがもたらしたのではないかという内容です。日本の国民は統計上、世界で最も長時間テレビを見ている。しかし、テレビをあまり見ない国よりも、日本はOECD(経済協力開発機構)の国際学習到達度調査(PISA)で成績が高いですね。これは、人々がだいたい同じようなドラマやニュースを見ることで、常識や知識の「セーフティーネット」ができていったからです。「共通の感覚」Common Senseという意味ではテレビの貢献は非常に大きいと思います。

大宅氏の「一億総白痴化」が未来予言だとしたら、それは外れました。しかし、これは予言全般に言えることだけど、何かが悪くなるという予言は、外れても喜ばれこそすれ、批判はされないのです。1957年という、まだテレビが東京、大阪、名古屋でしか放送されず、おそらく全人口のひとケタしか視聴可能でなかった時代に「総白痴化」を予言したことによって、少なくとも「そうなってはいけない」という社会意識が生まれた。

日本の放送法システムは世界に類のない番組編成の基準を設けています。すなわち教育番組10%、教養番組20%、つまり教育・教養番組30%を常時編成しなければ、放送免許はもらえないわけです(放送法は番組の種類を教養、教育、報道、娯楽などと区別している)。そうした制度が確立した背景に「一億総白痴化」の議論が貢献したのは間違いない事実です。

とすると、これは最初の話に戻りますが、「真偽」にこだわるジャーナリズム論的には大宅氏の予言は間違っていた。だけど、「影響力」や「効果」をみるメディア論的には、あの予言には大きな効果があったから評価できるという言い方になると思います。

ネットメディアvsオールドメディアの「戦場」とは

――「一億総白痴化」は、ある種の「歯止め」になったわけですね。大宅氏は評論家として傑出していたと改めて思います。私たちインターネット報道協会のメンバーは、ネットを中心に活動していますが、ネットメディアは将来、新聞やテレビ、雑誌とは別の「第4のメディア」になっていくのか。それとも、様々なメディアが全体としてネットに移行していくという形になっていくのか、どちらでしょう。

メディア論の立場からすると、「存在したメディアで消えたメディアはほとんどない」といえます。たとえば、新聞はラジオやテレビが出てきても消えなかった。ラジオはテレビが出てきても残っている。それぞれのメディアには特性があります。だから、新聞、テレビといったオールドメディアはそれぞれの特性に応じて生き残るでしょう。

一方、ネットはニューメディアであり、大きく広がる可能性を持っています。新聞、テレビ、雑誌の全てを包みこむような広がりです。とはいえ、ネットが「最後のメディア」なのかといえば、私は未来学者ではないので何とも言えません。

ネットで一番難しい問題は「文脈を追えない」ことです。旧ツイッターの「X」にしても、フェイスブックにしても、短い断片的な文章は書けるが、長く連続した思考やその変化を確認することは非常に難しい。「文脈」のないコミュニケーションは「真偽」の検証がむずかしいわけで、果たして信用できるものになるでしょうか。

たとえば、1年前に書いた論文と全く逆のことを、いま平気で書く人がいたとして、その文章を果たして信用していいのかということです。活字のコミュニケーションではそうした「文脈」がわかります。しかし、ネットの情報はそこがあまり見えない。

そういう意味では、新聞は「文脈」を大切にしているという点で生き残ることは可能だと思います。いずれネットの世界でも「文脈」を追えるようなしくみを考える人は出てくるでしょう。そのあたりが今後、オールドメディアとネットメディアがどうすみ分けて、どう変化していくのかという一つの戦場になるのだろうと思います。ただ、私は「文脈」の点では、まだオールドメディアの方に分があるような気がしています。

ネットは「信頼度の高い」メディアを創出できるか

――オールドメディアには非常にきつい時代になりました。私がかつていた雑誌や週刊誌の世界も完全に負のスパイラルに入っています。休刊や廃刊が相次ぎ、「週刊文春」がかろうじて生き残るかなという印象です。読者の信頼をつなぎとめるために何をすればよいのか。どんな役割を果たすべきなのかという点についてお伺いしたい。

メディアの信頼度を調査すれば、週刊誌はおそらく信頼度が一番低いでしょう。オールドメディアが生き残るために売り物にするのは何か。それは最初にも言いましたが、「真か偽か」です。まさに「信頼度」であり、それを担保する「文脈」なのでしょう。週刊誌についていえば、実は文脈の面はあまり強くなく、そのレベルはネットと変わりない。「それならネットでタダで見る方がいい」と多くの人々が思っています。この点では、新聞は信頼度がネットより高いからまだ有利であり、そこが雑誌をめぐる状況との差になっていると思います。

私の考えをまとめると、オールドメディアは「信頼度の高さ」をどうビジネスにするかを真面目に考えなければいけないでしょう。そこがネットとの差異化になります。いままでのビジネス規模を維持できない部分は当然、ネットに移行すべきところもあるでしょう。逆にネットの方は、どうやって信頼度の高めるシステムを創り出していくかがチャレンジングな領域になるということではないでしょうか。

(インタビューは2024年3月に行いました)

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プロフィール

佐藤卓己(さとう たくみ)氏

上智大学文学部教授 京都大学名誉教授 専門はメディア史、大衆文化論

1960年、広島市生まれ。84年、京都大学文学部史学科卒業。86年、同大大学院修士課程修了。87-89年、ミュンヘン大学近代史研究所留学。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、京都大学大学院教育学研究科教授。2024年4月から上智大学文学部教授、京都大学名誉教授。

主な著書に『現代メディア史 新版』(岩波書店)、『「キング」の時代』(岩波書店、日本出版学会賞受賞、サントリー学芸賞受賞)、『言論統制』(中央公論新社、吉田茂賞受賞)、『テレビ的教養』(岩波現代文庫)、『輿論と世論』(新潮選書)、『ヒューマニティーズ歴史学』(岩波書店)、『物語 岩波書店百年史② 教育の時代』(岩波書店)、『増補 大衆宣伝の神話』(ちくま学芸文庫)、『増補 八月十五日の神話』(ちくま学芸文庫)、『テレビ的教養』(岩波現代文庫)、『負け組のメディア史』(岩波現代文庫)、『ファシスト的公共性』(岩波書店、毎日出版文化賞受賞)、『流言のメディア史』(岩波新書)、『メディア論の名著30』(ちくま新書)、『池崎忠孝の明暗』(創元社)など。編著に『青年と雑誌の黄金時代』(岩波書店)、『近代日本のメディア議員』(創元社)、『ある昭和軍人の記録』(中央公論新社)などがある。

元木昌彦(もとき・まさひこ)氏

インターネット報道協会代表理事、編集者

1945年、新潟県生まれ。早稲田大学商学部卒。1970年、講談社入社。「月刊現代」「週刊現代」「婦人倶楽部」を経て1990年に「FRIDAY」編集長。1992年から1997年まで「週刊現代」編集長・第一編集局長。1999年、オンラインマガジン「Web現代」創刊編集長。2006年、講談社を退社し、2007年から2008年まで「オーマイニュース日本版」編集長・代表取締役。著書に『週刊誌は死なず』(朝日新書)、『孤独死ゼロの町づくり』(ダイヤモンド社)、『「週刊現代」編集長戦記』(イースト新書)、『競馬必勝放浪記』(祥伝社新書)、編著に『編集者の学校』(講談社)『編集者の教室』(徳間書店)、『新版 編集者の学校』(講談社+α文庫)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。